2015年御翼3月号その2

敬天愛人― 西郷隆盛

      

 幕末に、当時の体制では、外国の脅威に対処できないと考え、西郷は近代的な国家を目指した。そして、新政府軍の総指揮官として各藩の将兵を束ね、旧幕府軍との戦いを繰り広げていた(1968年戊辰戦争)。いよいよ新政府軍が江戸城を総攻撃することになっていた前日、西郷は勝海舟と会談した。西郷の要求は、江戸城の明け渡しに加え、最後の将軍徳川慶喜(よしのぶ)の身柄を新政府側の藩に預けることだった。しかし、勝海舟は慶喜を水戸に隠居させた上で江戸城を明け渡すと主張する。普通ならば交渉が決裂するところだが、西郷は「色々難しい議論もありましょうが、私一身にかけてお引き受けします」と言って、ここに江戸城無血開城が実現した。奇跡と思えるような戦争回避であるが、西郷も勝も聖書を読んでいる、事実上クリスチャンであった。実際、江戸城無血開城の会見に臨む三年前、二人は大阪で既に面会しており、そのとき勝は、「腐敗した幕府にはもう統治能力はない。長州藩を潰すぐらいなら、むしろ幕府を潰しなさい」と西郷に述べた。二人は明治政府や徳川幕府以上に神と人とに仕えていたのだった。
 明治の新政府は財政難に陥っていた。相変わらず財政は地方の各藩が握っていたからである。そこで、西郷は新政府の依頼を引き受け、廃藩置県(1871)を断行する。それは40万人もの武士が職を失うことを意味した。西郷は、武士の新たな就職先として軍隊制度や警察制度を設けた。廃藩置県から4カ月後、明治政府の要人らが一年半の欧米視察に出発すると、西郷はその留守の間、内閣を預かり、近代化のための様々な改革を行う。学制改革、身分制度廃止、鉄道・電信の整備、通貨制度、憲法制定・国会開設準備、裁判所開設、職業選択の自由などである。更に、国交の途絶えていた朝鮮との外交交渉にまで着手した。
 そんな中、西郷を怒らせる事態が発覚する。政府内で地位を利用した汚職が横行、私財を蓄える者がいた。これでは旧幕府の官僚と同じであり、「明治維新の戦いで血の流し犠牲となった者たちに面目無い」と西郷は汚職が判明した政府の役人を次々と更迭した。ところが、欧米視察団が帰国すると、西郷を煙たがり、朝鮮との外交を中止させ、西郷は明治政府を追われる。もし、西郷がこのとき、朝鮮と外交を回復させていたら、今とは違った東アジアが誕生していたはずである。
 西郷が好んで説いた言葉が、「敬天愛人」(天を敬い、人を愛する)であり、この出典箇所は、新約聖書マタイ五章四三〜四五節の「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」であると言われている。その言葉通り、西郷は降伏した敵方の武将に対しては非常に寛大な措置をとったという。鹿児島市立西郷南州(なんしゅう)顕彰館(けんしょうかん)には、西郷が読んでいた漢訳聖書(旧約)がある。西洋人と交際するには彼らの精神・心を理解することから始めなければならない、というのが西郷の聖書研究の始まりであった。西郷南州顕彰館館長の高柳氏は、「『(西郷が)側近に漢訳聖書を貸し与えた』との記述があることから、西郷が聖書を入手し読んでいたのは確実と述べている。『西郷は自分達の先祖に聖書を教えておられた』という言い伝えが残っており、間違いなく西郷さんは、晩年においてキリスト教を信じておられた」と語る。
 1877(明治10)年、鹿児島に戻った西郷の意思に反して、新政府に不満を抱える士族たちが反乱を起こす(西南戦争)。西郷は教え子たちと共に、その生涯を終える道を選び、戦いに敗れて鹿児島・城山で自刃(じじん)した。侍の世を終わらせ、侍と共に果てることを選んだ西郷隆盛は、明治政府によって逆賊の罪を負わされた。西郷の死から12年後の1889(明治22)年、大日本帝国憲法発布、その年、明治天皇は逆賊として死んだ西郷隆盛の明治維新の貢献を評価し、恩赦を与えた。明治天皇も自分は精神的にはクリスチャンであると告白していた。

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